塩五店舗電話番号

塩五(しおご)について

当店は『塩五』といいます。『塩五』と書いて「しおご」とよみます。「しおご」では発音しにくいので、地元ではなまって「しょうご」とよばれることのほうが多いかもしれません。

初代塩屋五兵衛は、それまで代々、干菓子やニッキ餅などを作って商売をしていた泉佐野の地をはなれ、貝塚で新たに菓子屋を開業しました。それが、江戸時代末期、幕末の安政元年(西暦1854年)のことです。当店では、この年をもって創業の年としております。

店名は、家号にちなんでいます。創業者の塩屋五兵衛(明治維新後、塩谷姓となる)は、その名から『塩五』と呼ばれ、家業を継いだ子孫も代々「五」の字がつく名が多く、塩谷家は今日にいたるまで、『塩五』の家号で地元では呼ばれてきています。家号の『塩五』とは別に、明治の中頃からは、「塩谷堂(しおたにどう)」という店名で営業していましたが、『塩五』の方が名の通りがよく、昭和四十年代半ばころより、店名も『塩五』となりました。平成四年(1992年)には法人化して、「株式会社塩五」としました。

塩五店舗画像

左の写真の店舗入り口上方の看板の文字は、岡部公以前の岸和田城主中村一氏(かずうじ)の子孫で書道家の中村眉山(びざん)のものです。

銘菓「村雨」について

「村雨」は小豆の蒸し菓子です。北海道十勝産や丹波産などの上質の小豆を、やわらかく炊いて、皮を取り除き、細かくすりつぶして、水分を搾り取ったあとのいわゆる"生あん"に、米の粉と砂糖を混ぜ合わせ、そぼろ状にして、特製の蒸籠(せいろ)に敷きつめ、じっくりと蒸し上げた棹物の生菓子です。ホロホロとくずれそうな手触りですが、噛むほどにモチモチとし、やがて口の中で溶けてしまうような食感が特徴です。甘さも控え目ですので、子供からお年寄りまで男女を問わず幅広い層に人気があります。「村雨」は生もので、保存料もいっさい使用しておりませんので、消費期限(品質保持期限)は三日間(製造日を含めて)となっております。夏季はカビが生えやすく、また冬季は固くなりやすいのでご注意ください。

明治36年、第五回内国勧業博覧会に「村雨」を出品し、優良品として褒め状を授与されました。また、明治42年2月には「村雨」の商標登録を果たしております。類似商品にはご注意下さい。

本店のほかに、なんば高島屋・うめだ阪急百貨店・あべの近鉄百貨店などでも「村雨」や「村雨饅頭」を販売しております。

村雨一本(一棹)  550円(税込み)  内容量150g

「村雨」の名の由来

村雨の 露もまだ干ぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

これは、鎌倉時代初期に編纂された新古今和歌集の一首で、寂蓮法師が詠んだ歌です。時々思い出したかのようにぱらぱらと降っては通り過ぎる雨、それが村雨です。 和泉八景の一つ「貝浦村雨」にちなんで名付けられた当店の村雨は、この歌に詠まれているように、ぽろぽろとくずれるようなはかなさを感じさせるお菓子です。

ちなみに、和泉八景とは、かつての和泉国、今でいうところの泉州の、特徴的な美しい景色を八つ選んだものです。いつの時代に選ばれたのかはわかりませんが、おそらく明治時代以前のものでしょう。

和泉八景

茅渟遠帆

茅渟遠帆
茅渟(ちぬ)は、泉州あるいは大坂を表す古い地名とされています。遠くに帆船が行きかう茅渟の海の景色です。

高師浜月

高師浜月
現在の高石市の海岸部の高師浜の月の光景です。

牛滝紅楓

牛滝紅楓
現在の岸和田市の山あいの牛滝川上流の紅葉です。

葛嶺峰雲

葛嶺峰雲
和泉葛城山にかかる雲の景色です。

貝浦村雨

貝浦村雨
しぐれ模様の貝塚の浜辺の情景です。

近義夕照

近義夕照
近義(こぎ)は、現在の貝塚市の北西部にあたります。

日根暮雨

日根暮雨
日根は現在の泉佐野市日根野のことでしょう。

須磨漁火

須磨漁火
須磨は現在の神戸市の須磨です。かつて灯りの少なかった頃は、泉州から大阪湾越しにはるか須磨の漁火が見えたのでしょう。

塩五御菓子看板

店内の「御菓子」の看板は、竹工芸家の田邊竹雲斎(先々代)の筆によるものです。